2009年10月23日 (金)

鹿嶋市民になるまで(19)

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーをご参照ください)

〔前回に書いた「鹿嶋市民になるまで(18)」の最後の部分〕

単純に、“鹿嶋の価格は安い”のだということはなんとなく分かりましたが、それが家を建てるのにどんな違いになるのかを調べなくてはいけないと同時に感じました。
預貯金、ローン、こういった話になると何よりも現実的な話なのかそうでないのかについては、「総額」によりますから。
関西の4分の1、6分の1であることは分かっても、一体それが家を建てるのにどれくらいの差になるのか?
「坪」とはどのくらいの大きさなのか?
総額ではどれくらいになるのか?

新たな疑問が続々と出てきました!

都内で家を建てるには・・・?

私が好んで観ていたテレビ番組に『大改造!劇的ビフォー・アフター』や『完成!ドリームハウス』などがあります。

これらの番組では、一般的な土地に普通の住宅を建築するといった観点ではなく、〝狭小な都会の土地に家を建てる〟ことや、〝古くて住み難くなってしまった家をリフォームする〟ことをメインテーマに制作されていたためノーマルとはちょっと遠い家が多かったのですが、そんな中でも、土地の値段やどのくらいの土地の広さがあれば家が建つのか?といったことについては参考になった部分も多々あります。

そして、街を車や徒歩で移動する度に、分譲されている〝土地の大きさ〟や〝坪単価〟などをちらほら観るようにもなり、不動産屋さんの窓ガラスに貼られている物件情報にもひきつけられるようになりました。

また、会社の同僚で家を建てた経験のある人には、「土地は何坪くらいあるのですか?」とか「坪単価はいくらでしたか?」なんて質問も結構ズケズケとしていました。

そんなことで、「30坪あれば家は建てることができる」、「駐車場を考えるなら最低でも40~50坪くらいは欲しい」とか、「庭を検討するなら凡そ60~70坪以上あればOK」(全て私個人の感想ですのであしからず)といった自分なりの想定を立てるにまで至りました。

そして「坪単価」ですが、都会では1坪100万以上は普通、都市近郊では1坪60万以上、田舎なら1坪40~50万以下という、こちらも〝自分なりの基準〟を立てれるようになりました(但し、都会でも、都市近郊でも、また、田舎でも場所によっては値段の上下幅は大きくなることもあるということも同時にインプットしました)。

また、これら土地の情報を得ていく中で、「土地を購入してその上に家を建てる方法」と、「土地と家を一挙に入手する建売分譲を購入する方法」があることを改めて理解し、さらに、土地の上に家を建てるときはそれぞれの地域(県?or市?どうだったかな?)によって、「隣の家の壁との距離」や「隣接する道路に対する建物の高さの制限」があることも勉強しました。

従って、私のプランの中では、「鹿嶋という田舎に住むことを計画しているのだから、都会で家を建てるのと違って、広々とした空間を確保できるくらいの大きさの土地」ということを第1希望に、そして、「土地を買ってその上に家を建てるのか?それとも建売住宅を探すのか?ということについては、物件を探していく中で巡り合ったものに対してフラットに考えていこう」とも思いました。

まあ、実際にはまだ物件を探すことをスタートさせた訳でもなく、自分の夢の中でシミュレーション的に考えているだけなので、余計に理想が高く、現実はあまり考慮していない希望にしか過ぎないのですけどね。

これらの情報を得た後に、改めて鹿嶋の土地の値段を調べてみると、鹿嶋市内(スタジアムを北限として)の土地価格については「7万~14万くらい」という範囲に納まるという理解をして、そして売りに出されているそれら土地の広さの平均は70坪を中心に分布している(やはり都会と違ってかなり広めの土地として売り出されている)ということも分かりました。

ということは、平均的に70坪×7万円~14万円=490万円~980万円の土地購入費用が必要ということが判明しました。

これを「安い」と捉えるか、それとも「高い」と捉えるかは、何処に土地を購入しようかと探している人によって様々でしょう。

私は、これまでに自分が住もうと思った場所の分譲土地の情報を再度検証してみて、改めて「鹿嶋の土地は格安だ!」という見解に至りました。

この時点で、「都会なら頑張ってもマンションが精一杯だけど、鹿嶋なら土地付きの一軒家が可能かもしれない」という考えを一本立てるに至りました。

それと同時に、鹿嶋における土地に掛かる購入費用の想定から、「これなら建売でなくてもいけるかも?」とか「建売ならもっとリーズナブルになるのかな?」とかいうことも併せて想像して、益々、夢は膨らむ一方となりました。

でも、夢から現実に目を向けると、土地を購入できる現金も貯金もないのですけどね・・・!

さて、次の想像は上物(建物)です。

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2008年1月29日 (火)

鹿嶋市民になるまで(18)

久々に「鹿嶋市民になるまで」の続きを書きます。

〔前回「鹿嶋市民になるまで(17)の最後の部分〕
ついつい、暇に任せて、便利なインターネットで「不動産情報」というものを開いて見てしまったことが、私の心のブレーキを解除してしまうきっかけとなってしまいました。なんと鹿島の土地の価格が、他の地方(候補地)と比較して安価なことか!それは驚きと共に、「チャンスが来た!」と思ってしまったというのが正直な気持ちでした。

インターネットで不動産情報を検索することとしましたが、それまで土地を購入するなんてことは投資目的でも考えたことがなかったので、一体どのくらいの価格なのか見当もつきませんでした。
なおさら、都心部の価格と田舎の価格差なんてものは、想像だにできないような知識でしかありませんでした。
「坪○万円」とか言われても、一坪がどのくらいの面積になるのかということも当然知る由もなく、また、それが購入価格にどういった影響を及ぼすのかという知識さえもありませんでした。

そんな程度の考えで、何気なくインターネットの「不動産」情報をクリックし、「茨城県」「鹿嶋市」で「新規分譲土地」で検索してみると僅か数件でしたが物件をヒットしました。
「えっ、これだけしかないの?」「いや、そんなはずはないだろう」と思い、今度は「仲介土地」という検索項目で見てみることに。
すると、先ほどとは違って何件もの物件をヒットすることができました。
写真付きのもの、そうでないもの色々ありましたが、いずれにしても価格帯は「坪数万円~十数万円」であったと記憶しています。
都心部や他の地域の平均的坪単価を知らないので、それが高いのかも低いのかも分からず、その時点ではそれら価格をみたところで感動も何もありませんでした。

そして、その物件情報の中に「斉丸土地」という不動産屋さんのホームページが紹介されていましたので、すかさずそちらに入っていくことにしました。
すると、そちらにはより詳細な情報が紹介された物件がいくつもありました。
何よりも目を引いたのが、鹿嶋市内の地図が書かれていて、その地図上に地区別にそれぞれの物件が紹介されていたことです。
思わずこれにはぐっと引き込まれてしまい、そこに住むことを想像してしまうような気持ちにさせられてしまったのを覚えています。

それを見たときに、「駅北」に新しく大きな分譲開発がなされていて、既に土地の販売は始まっており、既に残り少なくなっていてとても人気になっているということを知りました。
昔からその地域に住んでいない人間にとって、新しく開発される場所ならば“よそ者を排除する」”いった雰囲気はないだろうということが想像できたので、「初めて鹿嶋に住むよそ者でも仲間(ご近所)として受け入れてもらえるのではないか?」ということを考えてしまいました。
まだ、そんな段階ではないのに「住むならここだな!」なんてことで、勝手に想像を膨らましてしまったものです。

ちなみに、「駅北」の土地の価格は、坪単価9万円位~13万円弱(その当時に残っていた分譲土地で)位だったかと記憶しています。
やはり新興住宅街らしく、鹿嶋市内の他の地区よりも坪単価が高めに設定されているんだなと。
まだ、全く鹿嶋市街を知らない私にとって、「駅北」は新しく・明るく・便利で・駅や神宮に近く・住みやすそうな場所であることの印象を植えつけられました。
それ以外の地区については、写真や地図を見る限りでは、山や海岸、雑木林が周囲にあって、田舎の不便さや寂しさを感じさせられてしまうものでした(あとでそうではないことに気付くことになるのですが)。

「坪単価」というものにこれまで関心を持っていなかった私が、初めて「坪単価」の比較をしたのがこの「駅北」と「その他の地区」の価格差であり、それらの情報だけでは、「駅北はやっぱり人気があって高いな~。」「その他の地区はそれくらいが当然なのかな」と感じてしまったことはある意味仕方がなかったことかもしれません。

ひととおり鹿嶋市内の分譲土地の価格を調べたのち、もう一つの“永住候補地”である関西地区の分譲土地を同じ方法で調べてみました。
その値段の違いに思わず驚愕してしまいました。
「坪40万円」「坪60万円」といった物件がずらりと揃っていて、「物件数は確かに多いけど、こんなにも価格が違うのか・・・」と驚かされました。

単純に、“鹿嶋の価格は安い”のだということはなんとなく分かりましたが、それが家を建てるのにどんな違いになるのかを調べなくてはいけないと同時に感じました。
預貯金、ローン、こういった話になると何よりも現実的な話なのかそうでないのかについては、「総額」によりますから。
関西の4分の1、6分の1であることは分かっても、一体それが家を建てるのにどれくらいの差になるのか?
「坪」とはどのくらいの大きさなのか?
総額ではどれくらいになるのか?

新たな疑問が続々と出てきました!

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2007年6月 2日 (土)

鹿嶋市民になるまで(17)

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーを御参照ください。)

鹿嶋の住民ではないものの、その近辺に昔から住んでいるTさんや社長との出逢いは、私の「鹿嶋に住む」という思いを加速させる一つの要因になっていました。

しかし、転勤族の私は「自身が永住する場所をどこにするか?」というライフスタイル最大の問題は、仕事のことを考えると定年間際まで決めきれないという思っていました。

仕事以外のきっかけとして考慮できるのは、子供の教育に配慮して転校を無くすために、家族には生活の拠点を用意して自身は単身赴任するということくらいしかありませんでした。

鹿島を知る前までは、「結局のところ、子供が受験を向かえるような年齢になった時、又は、小学校などで“転校生ゆえのいじめ”に直面した時しか社宅を出て自家を取得することはないだろうな。」と考えていました。

そういった条件から、永住の地は嫁さんの実家に近い関西地方なんだろうなと頭の中で想像していました。

でも、鹿島アントラーズの魅力を知ってしまった私の頭には、僅かながらでも「鹿嶋市」という場所が選択肢の一つとして加わることはとても自然なことだったといえるでしょう。

さらに、Tさんや社長との出逢いによって、「鹿島の魅力」をたっぷりと紹介してもらったことで、選択肢の一つどころか「どうにかして鹿島に住める可能性はないものか?」と模索するようにまでなってしまっていたのです。

「鹿島は夏涼しく冬暖かでとても気候が良く、しかも、食べ物も安くて美味しい。」「東京から離れているけれど、高速バスがふんだんに走っているので意外と便利」などと田舎生活の良さを沢山教えてくれたので、それまでに思い描いていた“他の永住候補地”との比較でも一気に上位に躍り出てしまっていたのです。

そうなってしまっては、“熱しやすく冷め難い”性格の私としては、「思い余って行動に出てしまうのではないか。」と自分が怖くなる気持ちさえ抱いていました。

「嫁さんがOKといってくれるはずが無い!」ということが、私自身への唯一のブレーキでした。

「もっと慎重に、もっと時間をかけて考えなければいけない問題」だと自分に言い聞かせ、自分の気持ちを確かめるためわざとブレーキをかけるようにしていました。

しかし、それも年末までしか持ちませんでした・・・。

ついつい、暇に任せて、便利なインターネットで「不動産情報」というものを開いて見てしまったことが、私の心のブレーキを解除してしまうきっかけとなってしまいました。

なんと鹿島の土地の価格が、他の地方(候補地)と比較して安価なことか!

それは驚きと共に、「チャンスが来た!」と思ってしまったというのが正直な気持ちでした。

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2007年2月19日 (月)

鹿嶋市民になるまで(16)

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2003年のJリーグ制覇を、まさに手中に収めたと思ったところで掴みそこなったシーズンとしてしまった悪夢の一戦からそれほど日も経たないうちに、Tさんから電話がかかってきました。

「この前、話していた社長に会わせるから一度家の方に来てよ!」というお誘いでした。

私もこの“噂”の社長さんとは是非一度会ってみたいと思っていたので、「分かりました。じゃあ、明日にでも伺いますよ。」とすぐに返事をして、翌日を楽しみにしていました。

翌日は普通に出勤日だったので、夕方5時の終業のチャイムと同時に社長さんのところに向かいました。

社長のところは、自動車販売の代理店と修理工場が併設されており、「社長」といってもネクタイをびしっと締めて、恰幅のいい社長らしい社長ではなく、町工場の社長といった方がイメージにピッタリくるかもしれません。(どうもすみません、社長!)

Tさんに教えてもらうまでもなく、社長の店は道路に面していて、しかも田舎なので他に間違うような店もなく、待ち合わせの時間どおりに店に着くことが出来ました。

Tさんも時間どおりに店に現れ、そこで念願の社長との御対面になりました。

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2007年2月 9日 (金)

鹿嶋市民になるまで(15)

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埼玉スタジアムを後にする時、Tさんと私は田中選手の御家族とともに彼の自宅マンションまで車に乗せて送ってもらうことになりました。

ミニバンの最後部の隅っこにささっと乗り込み、車内の空気のような存在になりたくて、目立たぬように静かに隠れるように座っていました。
車内の会話といっても、夫人の家族とTさん(おじさん)、それと現在はマリノスに移籍したY選手の夫人と私という変てこな組み合わせだったので、しゃべっていたのは専ら運転していた夫人と助手席に座ったY選手の夫人でした。

会話の内容は特に変わったものではなく、「プロサッカー選手の奥さん達ならこういった日常会話なのだろうな~」と想像できるものであって、全くそのとおりの内容であったので愉快にも思える気分でした。

でも、埼玉スタジアムから帰る車の渋滞でなかなか進むことができない状態で、ゆっくりと車内からスタジアムの夜景を眺めながら、つくづく「今日は失敗した~!」と心の中で繰り返し想い、早くTさんと二人になりたい、いやこの家族の輪から離れたい!という気持ちで溢れ帰っていました。

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2007年1月25日 (木)

鹿嶋市民になるまで(14)

浦和レッズに残り2分で同点に追いつかれ、掴みかけていた優勝をまさに目前で取り逃がしてしまったことのショックは想像以上に大きく、やりようなない気持ちの揺れが体中を駆け巡っていました。

そんな時、同じ職場のTさんから「姪っ子の自宅に車を停めてあるから、そこまでは姪っ子の家族と一緒に車に乗って帰ろう。だから、これから合流するために家族席へ行こう。」と言われました。

まさか、そんな状況になっているとは知らず、アントラーズのエンブレムの着いたベンチコートやレプリカユニフォームしか着ていなかった私は、「こんな格好で行ける訳無いので、ここで待っています。」とコンコースで待つことを伝えたが、Tさんの勢いはそんな私の主張など全く寄せ付けることはなく、「こんな機会は滅多に無いから、大丈夫だから行こう。弟夫婦(姪っ子の両親)も一緒だから、あそこのエレベーターのところにいるから。」といって取り合ってもらえませんでした。

「でも。・・・この格好じゃ・・・。」と躊躇していると、Tさんはおもむろに自分のジャンパーを脱ぎ、それを私のベンチコートの上から着せてくれました。
“ベンチコートの上からジャンパー”というありえない格好は、当然違和感丸出しで全くもっておかしな格好でしたが、そんなことよりもTさんの気持ちがとっても嬉しかったのです。

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2006年10月 5日 (木)

鹿嶋市民になるまで(13)

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーを御参照ください。)

※※※ ※※※ ※※※

試合も佳境に入り、他会場の経過に気を奪われている隙に、何気なく1点を返されてしまいました。

その瞬間、沈黙を保っていたTさんをはじめ、周囲のレッズファンが一斉に目を覚まし、爆発的な喜びを始めました。

それでも時間は刻々と過ぎ、私の気持ちは他会場の試合の行方と、油断したら同点にされてしまう危険性のどちらに集中したら良いのか分からないくらい混乱してきました。

Tさんの顔は一気に笑みに変わっており、1点を返しただけなのに、「とりあえずゴールシーンが見れたので、これで負けても良しとしよう!」というコメントまで・・・。

「なら、すんなり勝たしてくれ!」と言いたかったのですが、そうも言えず。

そうこうしているうちに、後半40分を過ぎた頃に私の携帯が鳴り、TVで試合を観戦していたNさんから「横浜がやったぞ!」(引き分けに持ち込んだのか?勝ったのか?は忘れました。)と勢い込んだ声で伝えてくれました。

私は「えっ、本当ですか?今、こっちはリードしてます!このまま勝てば優勝ですね!ありがとうございます!」と天国にも上る気持ちで、奇跡が起きている!と鳥肌がたってきました。

すぐに、隣のアントラーズファンの方とTさんに、「磐田がやられました。このまま行けば優勝です。優勝!」とそのことを伝え、「よ~っし!」と試合に目を向け直し、その瞬間へのカウントダウンを始めようと身を乗り出しました。

すると、残りあと2分くらいのところで、(私の脳裏に焼きついているシーンは)右サイドの永井にボールが渡り、大岩がチェックに行くもライン際で振り切られ、右サイドからのセンタリング、ゴールエリアやや右サイドのニアに走りこんだエメルソンがダイビングヘッドでボールの角度を変え、吸い込まれるようにゴール反対側のサイドネットが揺らされました。

一瞬、無音で空気の流れも止まった状態になり、次の瞬間に周囲の人々の大歓声に包まれてしまいました。

「ちょっと、ちょっと、待った!やり直し、やり直しでしょ?そんなことあり得ないでしょ?ゆるされないでしょ?」と何がなんだか分からないことになってしまいました。

目の前には大岩や青木が芝生の上に倒れこんでいる姿が・・・・。

一瞬の間に“天国から地獄”へとは、まさにこの事かと実感できたのは、試合終了のホイッスルが鳴ってから、相当時間の経ったスタジアムのコンコースに来た頃でした。

心臓や胃や、気持ちの居場所が定まらず、「何かにすがらなきゃ、いてもたってもいられない」状態でした。

自分の頭の中は、先ほどの40分過ぎの電話連絡から失点するところまでのシーンが何度も繰り返し流れており、どこでストップして上書きし直せばいいのか?それを求めるばかりで、Tさんが何を言っていたのかすら覚えていません。

そして、現実に引き戻されたのはTさんの「じゃあ、一緒に家族の面会所に行こう。」という言葉でした。

私は「えっ?」と思い、そんなことは無理でしょう、アントラーズのエンブレムが入ったベンチコートに身を包んだ自分の姿からも、そして、今まさに息の根を止められた憎っくき敵の懐なんぞへ行けるわけがないでしょう?

当然、「いえいえ、私はここで待っていますから、行ってきてください。」と応えました。心の中では「ありがとうございます。気持ちはいただきましたので、後は勘弁してください。」というのが本音でした。

すると、Tさんは雨が降り、とっても気温が下がっきていて相当寒くなっている状況にもかかわらず、何と自らが着ていたジャンパーを脱ぎ、「これを上から着れば大丈夫だから。」と私のベンチコートの上から脱いだジャンパーを被せました。

※※※ ※※※ ※※※

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2006年10月 4日 (水)

鹿嶋市民になるまで(12)

「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーを御参照ください。今回は(10)の続きになります。

※※※ ※※※ ※※※ 

初めての埼玉スタジアムへは、武蔵野線と南北線を乗り継いで「浦和美園駅」まで行きました。

道中はそれなりにアントラーズファンもいましたが、スタジアムに段々と近付くに連れて、どんどんレッズファンに囲まれるような道のりになっていきました。

その当時は指定席だったのですが、国立での経験から多少の不安はありました。

そうです、バックスタンドのアウェー側なのですが、何分にもレッズのホームなので「周囲にはレッズファンばかりとなってしまうのではないか。」ということが心配でなりませんでした。

実際にスタジアムに着いて席までスタンドの階段を上っていくと、やはり嫌な予想は的中して、周囲には赤と黒のユニフォームを着た人ばかり。

それでも幸いなことに、私達の席の隣だけはアントラーズファンの人が座ったのです。

お互いに顔を見合わせながら、小さな声で「頑張りましょう!」と讃えあい、少しだけでしたが勇気も湧きました。

一緒に観戦することとなったTさんはお昼まで仕事があったので、丁度私がスタジアムに着いた頃に「車で仕事場を出発した。」との連絡を受けていました。

でも、「Tさんは一応浦和の応援をするのだろうな」ということは理解してあげないといけないと自分に言い聞かせて、応援のイメージを膨らませていました。

ちなみに、私をこのJリーグの世界に引きずり込んだFC東京ファンのNさんはその日は仕事だったのですが、仕事場で横浜VS磐田をテレビ観戦することができるということで、途中経過を携帯電話で知らせてくれるとのことでした。

そうなのです、この試合の結果だけでは優勝できるかどうか分からない状況で、磐田の勝敗も重要なファクターとなっていました。

Tさんが到着しないまま、試合は開始となりました。

その時点で、やはり周囲には、隣の同志を除いて殆どレッズファンの姿しか見えない環境となっていました。

でも、試合の方は・・・・。

なんと前半に小笠原の見事なボレーシュートが炸裂し、そして青木のJ初ゴールであっという間に2点をリードする展開に、私と隣のアントラーズファンは立ち上がって喜び、周囲のレッズファンは沈黙するのみ!

なんと心地よい展開か!

と、そこへ遅れていたTさんがようやく到着し、「すごいね~。このまま行くと優勝できるんじゃない?」と嫌味ではなく、友人としての心からのコメントをいただきました。

そして、気になる他会場の途中経過については、連絡がない状態でしたので「動きはないんだな~」と、アントラーズがリードしている展開だけに少しヤキモキした心持ちとなっていました。

そして、試合は後半へと進み、もう気になるのは磐田-横浜の途中経過のみ、という気持ちがいよいよ強くなってきました。

「このままだと得失点差が効いてくるのかな~」と追加点を求めるようにもなってきた、その矢先・・・・・・。

そうです、まさかの坂がそこにありました。

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2006年8月21日 (月)

鹿嶋市民になるまで(11)

浦和戦を終えたばかりで、当時の浦和との大一番(2003年の最終戦)のことを書く気にはなれないので、その前の試合のことを書きます。

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーを御参照ください。)

我がアントラーズは、ナビスコの優勝戦で浦和レッズに屈辱的な大敗を喫した後、Jリーグ優勝のかかった最終戦を順風満帆で迎えられていたわけではなかったのです。

その前にはガンバやマリノスといったツワモノとの戦いを含め、引き分けすら許されない大一番の直前の柏レイソル戦などがありました。

私達家族が鹿島アントラーズというチームを本当に好きになり、「これからずっと応援し続けていくんだ!」という気持ちにさせられたのが、実はこの柏レイソル戦だったのです。

チームの順位や勝ち点差から、引き分けてしまった瞬間に「優勝」の可能性がなくなってしまう土壇場の一戦でした。

試合は、前半に本山からの見事なパスを平瀬が落ち着いて流し込み見事先制!

その後もアントラーズペースで試合は進むものの、「早く追加点を取って安全圏へ」という想いが強くなってきた後半に、ドカン!と一発、相手に決められ同点とされてしまいました。

まだまだ時間は残っているので「きっと点を獲って突き放してくれるだろう。」と安易な期待を抱きながら試合を観るも、なかなかその追加点は入らず、時間だけが刻々と過ぎて行く。

攻めるも攻めるも無常にもボールはゴールネットを揺らすことはできず、試合は遂に90分を過ぎてロスタイムへと・・・。

その頃の私だと客観的になりすぎて「もう、勝利という望みはない。」と諦めの胸中になってしまっていたのですが、何故かその日に限っては、只々「勝ってくれ!」という想いしかありませんでした。

(その頃の私は、こういう気持ちになって負けてしまうと、翌日以降立ち直るのに時間がかかるので、そのような気持ちにならないように、「負けても仕方ない」と自分自身で予防線を張ってしまうことが多かったのです。)

そんな時に、ただ一人はっきりと運動量の違いを見せつけ、最後まで諦めずにゴールを目指し走り続けていた男がいた。

『小笠原満男』その人である。

その男の走りが試合を動かし、勝利への扉を開いた。

相手キーパーだったか相手DFだったかは忘れましたが、当ってリバウンドし、ゴール前から転々と緩やかに転がってきたボールに、一直線に走りこみ、豪快に左足でゴール蹴りこんだ!

ボールがゴールネットに突き刺さりって揺れた瞬間、私達家族は指定席であることもお構いなしに、立ち上がり、飛び上がって、抱き合い、とにかく狂ったように喜びました。

その時のイメージが、今にも続いている「私にとってのアントラーズ」なのです。

いつもギリギリのところで戦い続け、そして勝利を引き寄せ続ける。

昔はもっと“他を寄せ付けない強さ”を持っていたチームだったのでしょうけれど、そんな強さは今は無くとも、ボロボロになって必死に闘う今のアントラーズが大好きです。

そうですね、今も忘れられない思い出のゲームとして印象に残っているこの柏レイソル戦こそが、私が本当に「鹿島と鹿嶋に魅了された」大切な一戦だったのでしょう。

(次回こそは、浦和との大一番の事とその時の私の心情を書きます。)

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2006年7月 8日 (土)

鹿嶋市民になるまで(10)

久々に「鹿嶋市民になるまで」の続きを書きます。Img_1331

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーをご参照ください。)

前回は“Tさん”との出会いまでを紹介しましたが、このTさんは私と同じ会社の方ではありませんが、共通の仕事を多方面からサポートしていただいている関係会社の社員の方で、たまたま同じ場所で仕事をする機会があってそこで前回のような会話に発展したのです。

もともとTさんは茨城県の南部に住んでいて、土地柄、アントラーズはそれなりに地元チームとして応援(試合をたまに観に行く程度)していたとのことで、別に浦和ファンという訳ではなく「達哉ファン」である現状ということでした。

その後、仕事で顔を合わすたびにサッカー談義というか田中達哉談義に花が咲き、私がアントラーズを応援していることを快くも思ってくれて、茨城や鹿嶋の良さについても色々と教えてくれました。

鹿嶋というところの良さには、アントラーズだけでなく生活しやすい快適な気候風土、食べ物の豊富さやその安さ、海や湖といった水辺のレジャーが楽しめること、都心部からは程よい遠さの田舎であること(謂わば避暑地・別荘地)等々があり、「とっても良い所だ。」ということを教えてくれました。

といっても、それだけで鹿嶋に住むことを決めた訳ではありません。これらの話をきいたところでは、「鹿嶋は思っていたよりも住むことに不便さは無いのかもしれない。意外と住み易いところなのかもしれない。」といった程度の情報や知識が入ったくらいのことでした。

それから何日か過ぎた頃、Jリーグの最終戦である浦和レッズとの戦いの日が近づいてきました。

過去の反省からチケット(この時はまだ指定席利用者でした)は既に嫁さんの分と2枚購入してあり、その日が来るのを待つのみとなっていました。

国立の時と同様の不安(アウェー側の指定席とはいっても周囲は浦和ファンばかりとなってしまうのでは?という)はありましたが、それは優勝の可能性を残した重要なゲームということもあり、周囲に遠慮せずに応援しようとは心に決めていました。

ところが、試合の数日前になって、嫁さんが実家の都合により試合に行けなくなってしまいました。そのためチケットが余ってしまったのですが、一緒に言ってくれる友人は皆、仕事があって誘ってもダメでした。

そんな時Tさんのことを思い出し、既に聞いていたTさんの携帯電話に連絡して一緒に試合を見に行くことを誘ってみました。但し、アントラーズ側の指定席であるということを念押しして・・・。

実はTさんは姪っ子の家族席(浦和選手の家族用)に一緒に入ることをお願いしていたようで、残念ながら行く時は姪っ子の両親(Tさんの弟夫婦)とともに行くとのことでした。

そういくことでは仕方なく、もったいないけど一人行って一席は「荷物置き場にするしかないな。」と思っておりました。

そして試合前日の夜、突然、Tさんから私の携帯に連絡がありました。

明日、「現地で会おう。」とでも言われるのかと思っていたら、「実は、明日は急遽仕事が入って試合を見に行けなくなったので姪っ子に断りをいれておいたのだが、仕事が午前中で終わりそうなのでギリギリだけど埼玉スタジアムにいけそうなのです。でも、姪っ子に一度断ったのでその分を他の人に回してしまったので、そちらの指定席はまだ開いてますか?」ということであった。

私は喜んで「それならば一緒に行きましょう。チケットは明日の早朝、職場の方に届けます。私は先に電車で行きますのでスタジアムの席でお待ちしております。」と応え、Tさんは「じゃあ、私は車で行きますので帰りは一緒に私の車で帰りましょう。」ということになりました。

そして翌日、あいにくの雨の中、電車を乗り継ぎ一人運命の埼玉スタジアムへと向かいました。

横浜が磐田に勝ち、鹿島が浦和に勝てば奇跡の逆転優勝となる大一番。そして、浦和にはナビスコの雪辱をはらすこと!

そう、ただそうなるであろう展開だけを頭に描き、一人決意を抱いてスタジアムへと向かいました。

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2006年5月27日 (土)

鹿嶋市民になるまで(9)

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーを御参照ください。)

ナビスコで大敗を喫し、大雨に濡れたことよりも悔しさに心が濡れたことの方が寂しかった決勝戦の日の翌日のことです。

いつもように仕事をしながら決勝戦での悔しさを同僚に語っていたのですが、その話を聞いていた他部署のおじさん(私もおじさんですが)が、小さな声で「昨日の試合見られたのですか?」と語りかけてきました。

私は「もちろん、国立まで行って生で見てきましたよ!」と応えると、おじさんは「昨日の試合にうちの甥っ子が出ていたんですよ。」と言うのでびっくりして「えっ、誰ですかそれは?」と聞き返すと。「MVP獲ったんです。田中達哉って御存知ですか?」と!?

「知るも知らないも、ええっ~本当ですか?それは凄いことですよ!」と驚きながら社交辞令を述べていましたが、浦和の選手であって特に昨日の試合では“にっくき奴”だったことには違いなく、「どうしようかな」とも思いつつ、でもサッカー仲間であろうことには違いなかったので敬意を表して「いい選手ですよね~」と褒めました。

その時は仕事中だったのでゆっくりとサッカーの話をしている時間がなかったので、お互いに「また今度ゆっくりと話をしましょうよ。」ということとなりました。

そのおじさん(Tさん)は、住んでいるところが茨城だったのでもともとは鹿島ファンだったのですが、姪っ子が田中達哉と結婚したことから田中達哉ファンになったということでした。だから、Tさんは「達哉がいるうちは浦和を応援する。」と言っていたので「早く鹿島にくるように田中選手の奥さん(姪っ子)に伝えてください。」とか言いながら、短い時間でしたがお互いにかなり意気投合していました。

ひょんなことから、サッカーつながりができた職場での出来事でしたが、実はこのTさんとの出会いが、後に私を鹿嶋市民にする大きな起爆剤になりました。

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2006年2月28日 (火)

鹿嶋市民になるまで(8)

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーをご参照ください。)

2003年のナビスコカップ決勝はその前年に続き浦和レッズとの決戦でした。キャッチフレーズも「今年はどちらの赤?」といった洒落たもので、大江戸線の国立競技場駅にもそのポスターが貼られていて、否が応でも気分は高揚させられていました。

実はそれまでJリーグはメジャーでありながらプロ野球と比べたらまだまだマイナーであり、チケットも楽々手に入るものだとばかり思っていました。それでもナビスコ決勝ということでチケット発売当日には買いに出かけることを決めていたのですが、その日は仕事があり“チケットぴあ”のカウンターに行くことが出来たのは夕方でした。

すると、既にチケットは完売となっており、家に帰ってパソコン片手にいろいろと探してみても、もうチケットを正規には入手できないことを知りました。それと同時に、浦和ファンというものがどういう人達なのかを初めて認識した瞬間でもありました。

浦和がJ2に落ちた時に、浦和サポーターの嘆きやJ2でも変わらずに応援する硬く熱い気持ちがテレビのニュースで紹介されていたのを思い出しました。

鹿島サポよりも大多数で、しかもとっても熱い集団だったのです浦和サポは。(決して鹿島サポより熱いといっているわけではありません。)

仕方なくオークションで購入することにしたのですが、ホーム指定席ペアを数万円かかって何とか落とせました。プラチナチケットという言葉があったのもこの時に思い出しました。

そんな苦労をして入手したチケットを持って国立競技場に入場しましたが、やはり恐れていたことがそこにはありました。

席について周囲を見渡すとまだまだガランとしていて、鹿サポのペアやグループが点在しているのがわかりました。しかし、時間が経つに連れて周囲には『違う赤』の人々が続々と現れるじゃありませんか?

かろうじて隣には鹿サポが二人座ることとなりましたが、『違う赤』の人には意味不明な下敷きのような白いものを配られそうになるわ、訳の分からないパフォーマンスの説明をされるわで、「ここは鹿島サイドじゃないのか?」と不満と不安で一杯になっていました。

あいにくの大雨で、しかも周囲は浦和ファンばかり。天気ばかりか気持ちも土砂降りの雨のようになっていました。

それでも負けずに応援しようと意気込んでおり、選手が練習に出てきたら声援を送るつもりでした。

でも、鹿島の選手は出てきませんでした。浦和の選手がでてきた瞬間に国立は大声援に包まれ、レッズの渦に飲み込まれることとなりました。

そこからは試合が始まっても、山瀬のヘッドで先制点を取られてから周囲の浦和ファンが立ち上がって喜ぶ場面ばかり、その度に我々をすっぽり包んだ人垣の間から見えるのは上空のグレーの空のみ。

4点も取られて、周囲には喜びまくられ、情けないというよりも「悔しさ」を強く感じていました。

試合終了と同時に、「ちくしょう!見てろよ!いつか必ず!」と心に誓って一目散に駅に向かいました。

この瞬間から、浦和レッズは私にとって「絶対に許さないチーム」となりました。

そして、「鹿島を浦和以上にサポーターに応援されるチームにしたい。」と思い、“どうすればより多くの人々が応援してくれるようになるのか”を考えだした瞬間でもありました。

その時にチラッと頭に浮かんだのは、浦和の街の賑わいよりも寂しい雰囲気の『鹿嶋市内の風景』でした。人口や繁栄の差があるのは当然の事実でどうしようもないことですが、まず、これを何とかできないものか「ホームタウンを盛り上げることは絶対に必要不可欠なことだ。」と考えました。

さらに、「そのために出来ることは何だろう?」と・・・

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2006年2月15日 (水)

鹿嶋市民になるまで(7)

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーを御参照ください。)

鹿島アントラーズのサポーターになろうと思ったのは、チームに魅力を感じたからだけではありませんでした。

サッカーで街興しを頑張ってきた“鹿嶋”という街に賛同する気持ちが生まれたからです。

その要因の一つとなったのが、アントラーズのオフィシャルホームページの中にある「アントラーズヒストリー」を読んだことです。

御存知のとおり「陸の孤島」とよばれた鹿島の地に、町が元気になるように取り組まれたプロジェクトがプロサッカーチームの誘致であり、この取り組みを詳細に描かれているのがアントラーズヒストリーです。

豆知識:(当時は町だったので「鹿島」という表記で、市名の申請時に「鹿島市」が佐賀県に存在していたことから現在の「鹿嶋市」になったそうです。)

そのストーリーはまさに「プロジェクトX」のようであり、実際に同番組でも一部紹介されたことがあります。(Jリーグ誕生秘話「病床からのキックオフ」?とういタイトルだったかな?)

熱しやすく冷めにくい私は、このヒストリーを読んでますます鹿島アントラーズが好きになり、それと同時に鹿嶋という街が好きになったのです。

それからはアントラーズの試合が無い日でも休日には鹿嶋に出かけて、鹿島神宮やクラブハウス、神栖方面、ジャスコ・チェリオのショッピングセンター等をぐるぐると周っていました。

鹿島の歴史を知りたいと思い、アントラーズの歩みを知りたいと思う気持ちが強くなったのは、鹿島アントラーズが代表の抜けたメンバーで、見事にアウェーでジュビロを破ってナビスコの決勝進出を決めた頃でした。

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2006年2月12日 (日)

鹿嶋市民になるまで(6)

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーをご参照ください。)

ちょっとずれてしまいますが、話は半年ほど後の春のことでした。

鹿嶋に家を建てようと色々なハウスメーカーを回っていた時、鹿嶋という街を全くしらない私達家族には、やはりいくつもの不安がありました。

土地はどの辺りがいいんだろう?便利さは?治安は?などと誰に聞いていいものか分からず、その頃はハウスメーカーの人に街の状況や売地の情報を聞くのが精一杯でした。

そんな時、以前鹿嶋署の署長をしていた方と仕事上の関係があって、その方に鹿嶋の詳しい情報を聞くことが出来ました。

その方は親切丁寧に話をしていただいただけでなく、実際に鹿嶋の街を案内してくれました。さらに知り合いのハウスメーカーの社長さんまで紹介してくれました。

そこで、鹿嶋という街が今日までどのように発展してきたか?また、昔からの土地にまつわる話など、とても興味深い話を聞くことができました。

そして、その社長さんに頂いた「イチゴ」がまた格別でした。

鹿嶋のイチゴではありませんでしたが、利根川を挟んで反対側の東庄のイチゴでした。

このイチゴは、私が今まで食べた中でも群を抜いて美味しいイチゴでした。とっても甘く、そしてどこか昔懐かしい味がしました。

「とちおとめ」「あまおう」などのブランドものも食べたことはありますが、それら有名なイチゴであっても、このイチゴの足元にも及びません。

とにかく本当に旨い!会社の人にも味見をさせましたが、「旨いというレベルではない!」とか、「ん?これは旨い!」といった驚きの反応でした。

それから毎年、冬のこの時期になると、このイチゴを買いに東庄まで出掛けています。鹿嶋からは車で40分弱で行くことができます。

鹿嶋のイチゴも美味しいと聞きましたが、この東庄のイチゴは多分それ以上ででしょう。

東庄のイチゴ街道には、何件もの販売所がありますが、どこもその味は微妙に違います。

さて、私が絶賛するこのイチゴは、一体どのイチゴ農家のものでしょう?

IMG_0782

これはなかなか見つからないと思いますよ。

いつもなら地図を書いて「ここですよ!皆さん是非とも食べてみてください。」と言って紹介するところですが、このイチゴだけは秘密にしておきます。

こんな美味しいもの人にはなかなか教えられません!

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2006年1月21日 (土)

鹿嶋市民になるまで(5)

アントラーズグッズとして次に必要な物はタオルマフラーでした。試合開始前に応援が始まるのですが、そのときにゴール裏を良く見ると皆が両手で何かをかざしているではありませんか?

よくみるとタオルのようなもので、それにはアントラーズの文字や柄が入っており、売店に行くとそれが「タオルマフラー」と呼ばれるものであることにすぐに気付きました。

皆はそれを掲げて何かを歌い、テンポが速くなるとそれを勢いよく振り回し、ゴール裏の皆がそれを一斉にしている風景はとても一体感があって壮観なものでした。

「そうか、この応援歌のときはこのうなパフォーマンスでやるのだな。」と気付き、覚えやすいフレーズの歌でもあったので、次のゲームの時には是非やってみたいとも思いました。

それでも次のゲームの時には周囲に対する恥ずかしさもあり、タオルマフラーを振り回して「オーオーオ オーオオー」と小さな声で歌うのがやっとでした。その頃はまだ指定席での観戦であって、周りの人たちも応援をするというよりも応援を見るといった感じだったので、物足りなさは感じていましたが、それが精一杯でした。

今思えば、それは「錨をあげろ」であり、私が始めて自分の声をスタジアムで出した瞬間でもありました。

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2006年1月14日 (土)

鹿嶋市民になるまで(4)

(「鹿嶋市民になるまで」のカテゴリーをご参照ください。)

初めてカシマスタジアムでアントラーズの試合を観戦して物凄い感動を覚えたものの、その時には鹿嶋に引っ越すなどという考えはこれっぽっちもありませんでした。

次の試合を観に行く計画することに喜んでいる程度で充分だったのです。

その頃の私の仕事は、土曜日、日曜日は休日ではなく出勤日であったため、主に水曜日のナイター開催と祝日開催の試合しか観に行くことができませんでした。そのため次のゲームは9月のナイターや11月3日(祝)に行われるナビスコの決勝といった先々の計画しか建てることができなかったのです。

でも、行ける可能性のある限りは、仕事の都合をつけて他のどんな予定よりも優先した絶対的な予定としました。それを待つことの喜びを感じるだけで満足できていた時期でした。

さて、1回目のスタジアム観戦から次回の観戦までにやらなくてはならないことがありました。

アントラーズグッズの調達です。

初めて買ったアントラーズグッズはTシャツでした。

レプリカユニフォームを買うことに若干の躊躇があったのは、値段がTシャツに比べて高いこともありましたが、“どの選手の背番号にするか”ということを決める必要があったからです。

だから、「好きな選手、応援する選手が決まるまではTシャツで我慢」というのがTシャツにした本当の理由です。

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2006年1月 7日 (土)

鹿嶋市民になるまで(3)

(「鹿嶋市民になるまで」を再開します。カテゴリーを参照ください。)

さあ、初めてカシマスタジアムで「これぞJリーグの応援!」というものが始まりました。

それは、選手が入場する前から太鼓が鳴り、応援歌(多分、「錨をあげろ」だったのでは)が歌われ、さらにゴール裏を中心にタオルマフラーが振り回されるもので、これには自らの感動のボルテージが上がらざるを得ませんでした。

そして、多くの選手の顔が描かれたビッグフラッグが登場したときには、「うぉ~、凄い。凄いや!」と武者震いしました。

さらに、ジーコの顔が描かれたビッグフラッグにチェンジされるなんて!鹿島というチームが、鹿嶋という街がジーコを讃えるという気持ちにまず感動し、そして、これら全てを見事に演出し表現しているゴール裏のサポーター達にとてもとっても感激しました。

やはり鹿島の応援は違う!一味どころか、全然違う!凄い。とにかく素晴らしい!

そう感じたのは素直な気持でした。

ゲームの内容はよく覚えていませんが、当然のように鹿島が勝ち(確か中田浩二が2ゴール)、その勝利による満足感と併せて、終始大きなボリュームで応援し続けられた謂わばエンターテイメントに、私は一晩にして心を奪われてしまう結果となりました。

帰りの渋滞待ちの車の中で、今日のスタジアム体験を幾度も回想して何と心地の良かった時間であったことか。試合の内容は覚えていなくても、未だにその時の心地よさははっきりと覚えています。

「いいよ。いい!鹿嶋という所には素晴らしいものがある。」

明日からの仕事のスケジュール調整を思案しながら、もう次のスタジアム観戦を計画している自分がそこにいました。

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2005年11月 1日 (火)

鹿嶋市民になるまで(2)~はじめてのスタジアム

アントラーズのホームゲームを始めて見に行くことになって、国道51号を車で走り潮来の町に入った時、転勤族で色々な田舎を見てきた私は「なんて寂しい雰囲気なんだ。ここに住んでいる人たちは何を楽しみに生活しているのかな~。」なんて気持ちになりました。率直なところ「こんな東の果てなどに住むことなど絶対にないだろう。」とまで感じていました。

ところが潮来の町を抜けて「洲崎」の交差点を左折“新神宮橋”を渡り出した頃から あれ!? という町の雰囲気に変わってきました。綺麗な整備された町並みがそこにはあったからです。

鹿島神宮駅を右手に見て、左手の高台には大きな真新しい病院(小山記念病院)、その真ん中を幅の広い整備された道が通っていて、その道を上って行く時には先程までの“寂しい”といった町の雰囲気は全くなくなっていました。

スタジアムまで続くその道を進み、鹿嶋消防署の交差点を過ぎ、左側の緑の木々を超えた先に突然見えたのは、田舎には不釣合いな規模、そしてすばらしいフォルム、こんな場所にはミスマッチもいいところと言われても仕方の無いくらい美しいスタジアムでした。私は第一印象から圧倒されてしまいました。

IMG_0002 朝日に映えるカシマスタジアム

鹿島神宮駅方面から国道51号を進みスタジアムを過ぎたところのセブンイレブンからみたスタジアム。サポーターズシート(ゴール裏)はこちら側の1ゲート、6ゲートからの入場になります。

初めてのカシマスタジアムはS指定席でした。

席に着いてもゆっくりはしていられません。キックオフまでにやらなければならないことが。そうです「もつ煮」です!

早速、数ある売店の中で「どこの店の“もつ煮”が一番美味しいのだろう」と、うろうろ探した挙句、結局、持ち運び等も考えて席から一番近い店で買いました。

それは、噂に違わぬ美味さでした!!

~ちなみに埼玉スタジアムの“焼きそば”は、麺にソースがかかっているだけでキャベツの一切れも入っていませんでした。あそこはカップヌードルが一番旨いですね。その他のスタジアムの売店も作ってきたものを運び込んで販売するだけで、カシマスタジアムと比較すれば・・・ひどいものですね。

それほどまでにカシマスタジアムの売店は充実したラインナップです。もつ煮以外にも豚串焼き、ケバブ、五浦ハム焼き&汁、けんちんうどん&そば、鮎焼き、さざえの串焼き、各種カレー、クレープ、メロン(パン・シュークリーム)、お好み焼き等々、まだまだ紹介しきれない他のメニューもありますので、また今度ゆっくりと特集を組んで紹介いたします。~

さて、もつ煮も腹におさまり、選手のウォーミングアップが始まった頃からゴール裏にざわざわと活気が出てきたことに気付きました。

N氏から聞いていた名物の応援がいよいよ見られるのでしょう。

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2005年10月23日 (日)

鹿嶋市民になるまで(1)

私が鹿嶋に住むことを心に決めたきっかけは、会社のNK先輩に誘われて行った味の素スタジアム(その頃は東京スタジアムだったかな~?)でのJリーグ戦でした。でも、そのゲームはアントラーズではなくFC東京のホームゲームでした。

東海地方のサッカーの盛んな土地で育った私は、小学校4年生から高校3年生までサッカー部で結構優秀な成績でしたが、大学で通用する技術はとてもなかったので大学では違う体育会系のクラブに入りました。そんなサッカー経験者がJリーグの試合を初めて生で観戦したのはリーグの開幕から10年過ぎたその日だったのです。

昔のサッカーしか見たことのない私にとって、スピード感あふれるゲーム展開やスタンドの大きな声援はとても素晴らしいものでした。

「これははまってしまうぞ!」と感じたのもつかの間、NK先輩から「住んでいるところが茨城ならカシマスタジアムに行くといいよ。あそこはサッカー専用スタジアムだからここ(味スタ)よりもばっちり見えるし、応援も凄いから見ていてとっても面白いよ。また“もつ煮”とか食べ物が美味いんだ!」と教えられ、私の心の中ではまだ見たことのないカシマスタジアムでの試合を想像し、すでに期待感が一杯に広がっていました。

その日は、FC東京戦の余韻よりもカシマスタジアムに行くことで頭の中は埋まっていました。家に帰ってからすぐに鹿島アントラーズのホームゲームの日程を調べ、仕事の都合がつく日を選び、チケットを求めるため近所のファミマに走りました。

2003年の8月、ナイターでの名古屋戦でした。

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